読書メモ[教えることの復権』 その②
前回の『教えることの復権』の続きです。
2018年の締めくくりとして読んだ『教えることの復権』その① - happy365day’s diary
P89
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授業中に子供たちがかわいいと思ったことはなかった。
この子はかわいいか、かわいくないか、なんて、そんなこと考える暇なかった、
忙しくて。
子どもへの愛情だなんていわれると、そうかもれないけど、私は別に愛情のためにやったのではない、また自己満足のためにやったのではない、そういう事とは違う。
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☞感じたこと:
無我夢中に戦後国語教育に飛び込んで単元学習のスタイルをスタートした時代だったそうです。
膨大の資料を読み、行く所々で授業で使えるものがないかアンテナを張っているそうです。さらに、一人一人に合った資料・一人一人に合った質問などを用意しています。
一クラス4~50人いると思いますので、どれだけの膨大な仕事量・作業量だったのかと思いました。さらに、どこかに書いてありますが、「独身だからできたのかもしれない」との文面もありました。(記憶違いでしたらすみません。)
つねに、学生たちのことを考え、そのクラスクラスにおいて、学生たちの状況やレベルを把握しようと必死だったのだと思いました。
常に新鮮な気持ちで新しい教材を使い、学生たち一人一人に気配り・目配りをし、全力を尽くしていたためだのではないかと思います。
私最近やっと学生たちがかわいいなと思うようになりました。最初の頃は本当にたいへんなこともたくさんありまして、心の余裕がありませんでした。
しかし、これは大村先生の教えだと、まだまだ全力を尽くせていないと言うことになるのかもしれません。
でも、少しは可愛いな😍と思う心をもって自分の心に栄養剤を投与しながら学生たちと向き合い、学生たちのために授業を続けていけたらなと思ったりもします。
P93
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『教えると言う事』の中に、生徒に静かにしなさいって言わなければならないようなら、教師として敗北宣言をしたようなものだ、という言葉がありましたね。
私も「静かにしなさい」ということがあるんです。ありますけれども、ほかの人が言うのとぜんぜん違うんです。
心に冷たい涙を流し、慚愧に堪えぬ思いなのです。ほかに能力がなくてこの人たちを静かにする案ももたず、対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で「静かにしなさい」という文句を言うんだということを、私はかたく胸にたいにしています。
(中略)
ほんとうに、自分を深く責めながら自分の無力を心から恥じて、その思いの中で、仕方ないんだから「静かにしなさい」というんです。
(中略)
いばってなんか言えないし、ましてや子供が悪者だというような顔をしてこちらから言うなんてことは私はとんでもないことだという気がします。
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☞感じたこと:
このページを読んだとき、私は深く反省しました。
クラスに、あまりにもうるさい学生がいます。そしてやってほしい練習問題とかはあーだ、こーだって理由をつけてやりません。そのわり、何もかもに口答えしてきます。口は達者でひねくった答えもたくさん出します。それに加え、ほかの学生の邪魔もします。静かに練習問題をやっている学生に声をかけたり、練習問題を横取りして答えをコピーしたり、、、さらに誰に質問をしても必ずその学生が先に答えを言います。
あらゆる手段を使いました。ほめたり、たたえたり、お願いしたり、無視したりなどなど・・・しかし3,4回ほどは本気で「静かにしなさい」と怒ったことがあります。
心身ともに疲れ切った私は、ずっと、あの学生が悪いと思っていました。あの学生が欠席した日はとても嬉しいと思ったこともあります。そのような歪んだ心を持った時期もありました。
しかし、大村先生の話を読んで、本当に自分はいけない先生なのだと反省しました。
今考えると、なぜそんなに話したいのか、なぜ静かにしていられないのか、ただの興味がないからなのか、それとも何かの発達系の問題があるのか?いろいろ原因はあったのかもしれません。もっと暖かい目でその学生のことを理解する努力をしなければいけなかったのに、と思いました。
そして、敗北宣言の「静かにしなさい」ではなく、もっと楽しく、ためになる授業作りに励まなければと思いました。
Pページ数不明
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目標なく、「子どもの希望に任せる」のは危険
単元学習には非常に教師の力が要るわけ。
この単元の目指すものはこれって決めて、そこへ向かって具体的に手を尽くさなければならない。
これよさそうだ、これは楽しそうだなんてやっていたら学力低下になるのは決まっている。
そんなやり方で目標もはっきりしないのにそのうえ子供の希望に任せるなんていうことをしたら、危ないですよ。
子どもがやりたいと言ったことをそのまま根拠にしてはダメ。人間、やりたいことあるのも大事なことだけど、やりたくないことでも、やるべきならするようでないと世の中困ってしまうでしょう。
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☞感じたこと:
近年、アクティブ・ラーニングや自主学習、深い学び、行動中心主義などが盛んになり、いかに楽しく、いかに学生たちを楽しめられるのか、学生たちに自主的に勉強してもらうのかが議論されています。
私も流行りに乗り遅れまいといろいろ本を読んでみたり、研究会やセミナーにも行ったりしていますが、勉強不足でまだしっかり一人でこのような授業ができるか不安でもあり、あまり積極的に実施できていません。
そこで一つ思ったのが、「教師が教えることって本当にそんなに否定されるものなのか」ということでした。もちろん、「アクティブ・ラーニングや自主学習、深い学び、行動中心主義」もとても大事な理論で、現にそれで上達している学生たちがたくさんいるので、科目によっては、バランスよくこれらを組み合わせてやるのがいいのではないかと思ったのです。
みんなで議論すること、みんなで考えること、さらに自分に必要なものを必死にやっていくこと、自分がやりたいことをやっていくことは大事ですが、基礎の知識を持っていないものとしては、豊富な知識を持っている方からいろいろ教わりたいこともたくさんあるのだと思います。
私が経験した2つの実体験です。あくまでも私自身の感じ方なので、異論があるかもしれませんが、、、
1つ目は、日本語学の権威ある教授の授業を聴講した時でした。
退官する1年前に学部向けに授業を行いましたが、当時大学院生も授業を聴講してもらえたのですが、それが一生忘れることのできない授業になりました。
一生をかけてやってきたこと、国語学・日本語学がどのように今に至ったのかという文法史など、さらにどんな本がいいのか進め本も毎回何冊かありました。
その先生の授業を学部時代に日本に来たばかりの同級生が聞いた時には、「つまらない、ねむい、おもしろくない」だったそうで、「その授業は取らない方が良い」とアドバイスをもらいましたが、実際先生の授業を聞いて本当にたくさん勉強になりましたし、毎回授業が終わってから勧められた本を購入するのも楽しみの一つでした。
自分が興味を持っているものであったのもありますが、半世紀をかけて研究した先生の講義はとても重みがあって、この講義を聞いて本当によかったなと心からそう思ったのです。
なので、授業科目?授業内容?によっては、ワークをするのではなく、講義の形でも決して悪いことばかりではないと思いました。
二つ目は、とあるワークショップに行ったときのことでした。
漢字教授に興味があり、喜んで申し込み、参加しました。
最初に、主催している先生が自己紹介を含め、研究動機を話し、そこから「既習漢字の復習の授業」を考えてくださいとのことで隣の人と二人で話し合い、その授業案を一枚の紙にまとめ、みんながそれぞれのテーブルに置きます。そしてみんなは歩き回って、テーブルに置いてある授業案の紙を見ながら写真を撮ります。
写真を撮り終わってから先生から何かしらの講義があると思っていたのですが、これでワークショップ終了でした。
隣の人と一緒に考えて楽しい授業を作ってみたこと、いろんな先生方のアイディアをみられたことは、とても勉強になりましたし、楽しかったです。しかし、漢字習得に権威のある先生にせっかく会えたのだから、もう少し具体的な漢字の教え方やノウハウ、アドバイス・情報なども欲しかったなと思いました。
知識豊富な先生方が日本語を学習している学習者に対して、ワークや話し合いだけで終わらせず、しっかり知識になることを教えてほしいと思いました。学生たち自身が話し合いで学んだこともきっと忘れないと思いますが、それ以上に先生からもしっかり教えてもらいたいと思っているのではないかと思いました。
そのためにも、教師側はしっかり準備をし、話し合いにしっかり参加し、学生たちが得られた結論にプラスした形で還元しなければならないと強く思いました。
なかなか勉強することが多く、追い付かない状態ですが、今年は少しずつ勉強を続け、自分なりのいい授業を作っていきたいと、思います。